ハラル食
世界の不穏な情勢は続いている。そんな折、イスラム教への関心が高まっているという。一部の過激な人々の行為への反感を持ちながらも、冷静に世界の情勢を分析したい人たちは、この宗教の歴史や教えを正しく理解したいと思っているのではないだろうか。実は、世界のほぼ2割の人がイスラム教徒。そしてその数はさらに増えると予測されている。
イスラム教徒は豚肉を食べてはいけない、ということは広く知られているが、それだけではなく、イスラム教で合法とされる方法で処理された「ハラル」食のみを食べている。世界の各地でムスリムの人々が増えるのに従って、ハラル食を食べることができるレストランや、ハラル食材を買うことができるお店が増えてきた。
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ムスリムの多い国に行くときは鳥を注文することが多いかも |
食べることは、他の生き物の命をいただくことだ。殺生を禁止している宗教もあるが、私たちが命を終えるまで、他の一切の命を奪わないということは不可能である。生命を構成する物質は一カ所にとどまっていない。「動的平衡」で福岡先生が書いているように、私たちの細胞は常に入れ替わっているのだ。身体を維持するためには、外部から食べ物を取り入れ細胞を入れ替えることは避けて通れない。
ただ、命を奪われる側の命を奪われる瞬間のことを想像すると、生き物、特に動物を食べることが辛くなる。生きたまま調理をするものとか、生きたまま食べる料理法とかは、わたしには残酷に見えてしまう。とりわけ日本では、生き作りなどのような料理があって閉口する。
ベジタリアンになることも考えた。野菜は好きだし、野菜だけの食事でも大丈夫。機内食でベジタリアンメニューを選んだりもする。でも、栄養のことや、動物食品(肉、魚、卵、牛乳など)の味が好きということもあり、肉と魚を食べることをきっぱりと止めることは難しかった。
肉を食べたときに、ふと考えた。宗教的な作法に則って作られるハラル食は、命に敬意を払う食べ方なのではないかと。何でも際限なく食べて、たくさん残してしまう人々が多く住む国で、ハラルのような方法を取り入れることができないものだろうか。
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ハラル作法に則って準備された食材。 |
ニワトリを食べる
かなり前のこと。東南アジアのある町に長く滞在した。ここには大学が多く、学生の街としても知られている。下宿の近くの食堂が安くて美味しくて、すっかり常連に。学生たちとも仲良くなった。ある休日、近くの遺跡を見に行くことにした。友人たちに「自分だけで路線バスで行く」と話すと、心配したかれらのひとりが一緒に行ってくれることになった。
世界遺産の大きな遺跡をまず訪れ、さらに、農村の村に点在するさまざまな中小規模の遺跡をレンタサイクルで回ることに。あたりには田や畑が広がり、ときどきアヒルの群れやウシの隊列、頭にかごをのせて小さい子どもの手をひいた女性たちとすれ違う。
自転車で農道を走っているとき、ついさっきまで青かった空がにわかに暗くなってきた。大粒の雨が乾いた道路をすぐにぬかるみにしていく。大きなリンガを祀った遺跡についたときには、土砂降り。遺跡の脇の大きな木の下で二人で雨宿りをした。
遺跡の前の小さな農家の前庭では子どもたちが遊んでいる。やがて、お母さんと思われる女性が大きな盥の前の木材で作業の準備を始めた。そこに足を一緒にロープでつながれた15羽くらいのニワトリが運ばれてきた。
女性は、手刀でニワトリののどをスパッと。赤い血が盥の中に流れていく。ニワトリはロープにつながれているので逃げられず、ばたばたと羽を動かし、やがて動きが鈍くなった。女性は手際よく順番にニワトリののどを切っていく。お互いにつながれているニワトリは、隣のニワトリが切られるのを感じていたはずだ。
「うわ・・」とわたしが目を逸らしたのを見て、彼は「Amyは見る勇気がないんだ」と言う。
「殺されるのを見るのは好きではないよ。」
「でも、料理されたら食べるだろ?」
確かに。フライドチキンになっていたら、飛びついてしまう。
このとき、食べることは、命をいただくことだと心底感じたのだ。それ以来、食事をするたびに、そこにある食材の命のことを考えるようになった。人の食材にされなかったら、その個体は生き延びて、もっと子孫を残せていたかもしれない。
その後、わたしは自然保護の仕事をするようになり、食材がどこからどのように運ばれてくるのかを明らかにすることの大切さを実感している。
飽食事情や食糧の廃棄のことを聞くたびに悲しくなってしまう。命をいただいていることへの感謝を忘れないために、ハラル食のように食材が処理されていれば、少しだけほっとして食べられるのに、と思うのである。